英語嫌いな私の変化
まず飲食店のトレーニングとして、仮に始めたのだ。
いわばテストということだ。
焼き鳥屋といっても、テナントを借りるという形の経営ではなかった。
持ち帰り専門の焼き鳥屋であった。
具体的に言うと焼き台をセットした軽トラックで営業するというもの。
主にスーパーマーケットの駐車場が営業場所。
また、イベントごとにもたまに出店していた。
なぜこのようなフランチャイズの焼き鳥屋を始めたのか。
それは、タコライスという沖縄名物の持ち帰り専門店を開きたかったのだ。
タコライスと焼き鳥という扱う商品以外は、営業形態が似ていたのだ。
私はもともと石橋を叩いて壊すぐらいの性格であったので、いきなり5000000円ほどの資金を投入して、いきなりタコライス屋を始めるのは避けた形。
ハッチバック式の飲食店営業というのが、現実としてどういったものなのかを知る必要があったと判断した。
いざやり始めてこんなはずではなかったという事態を避けたのだ。
フランチャイズの焼き鳥屋の開業資金は300000円ほどであったので、テストするには安すぎるぐらいの資金であった。
ハッチバック式の飲食店はテナント代がないので、経費がほとんどかからないように思うが、実際はいろいろと経費がかかる世界であった。
テナント代時代はないのだけど、スーパーの駐車場などを借りるため、スーパーに対して売上の決まった%払わなければいけなかった。
形は違えどこれは家賃という形と同じ。
私が営業していた場所では売り上げの18%も取られていた。
ハッチバック式のスタイルに関しては、やはり知り合いの空いている土地で営業させてもらうのが賢いと思う。
まあタダでは借りれないと思うが、何かその人の好物とか、少しお金を包めばいいと思う。
売上の18%に比べれば微々たるものである。
またフランチャイズ式だったので、フランチャイザーの肉屋から、串さし済みの肉を仕入れる必要があった。
通常ならば焼き鳥というのは、一つの経費の単価が10円程に抑えられる。
しかし串さし済みの場合は一つ30円ぐらいで仕入れる形であった。
なので、売り上げは上がれど利益率はそこまでなかった。
また営業車に関しては、月々90000円というリース契約を結んでいた。
まぁ初めからそんなに長くは焼き鳥屋をやるつもりではなかったので、月々90000円のリース契約というのはありがたかった。
もし、長期間営業するとなれば月々90000円のリース契約はかなり厳しいものであっただろう。
しかしトータル的にみてフランチャイズらはぼろ儲けであったことには間違いない。
そのことはわかっていたが、この時の目的は、焼き鳥屋で食べていくわけではなく、あくまでもタコライス屋に向けてのテスト営業であったので、数字の部分は割り切っていた。
私が一番フランチャイズオーナーの中では年がわかった。
他にフランチャイズオーナーが20人ほどいたが、中年の人間が多かった。
独立して一発当てようと野心を持って皆始めたようであった。
仕入れ先で実際、みんなと話す機会があったのだが、やはり予想は的中していた。
しかしみんなやり始めてから、現実はそんな甘くないことに気づいたらしい。
結局のところ、みんな泥沼にはまっていってるような感じであった。
このような世界観を見たのは私にとっては、大きな意味があった。
話は変わるが、なぜ私がタコライス屋を始めようかと思った経緯をたどる。
初めて沖縄に訪れたのが大学4年生の頃。
その時に沖縄中部にある金武という町を訪れた。
なぜそこに訪れたかというと、その町はタコライス屋の発祥の地であったからである。
どのようにタコライスが発祥したかというと、金武にはキャンプハンセンという大きな米軍基地があり、そこの米軍の兵士向けにタコスだけでは物足りないので、タコスのシェルの代わりにライスを使い始めたということ。
シェルをライスに変えることによって、ボリューム感がものすごいことになった。
おかげで、米軍の兵士たちは、お腹を十分満たすことができたということだ。
キャンプハンセンのゲート前のメインストリートにはいくつかのタコライス屋があった。
その中のキングタコスというお店でタコライスを食べて衝撃を受けたのだ。
タコライスというのは、ご飯の上にチーズと味つけされた挽き肉を置き、さらにその上に新鮮なレタスの千切りを敷いたもの。
それにタコスソースをかけて一気にかぶりつくのだ。
そして飲み物はコーラをガブガブと飲む。
ファストフードな感覚であった。
当時は若かったので、その味にほれ込んだ。
その後、地元に帰ってからも、自分でタコライスをよく作っていた。
友人などにも食べてもらったのだが、これがかなり好評であったのだ。
大学を卒業したと一旦就職したものの、すぐに退職し、自営業の道を志した。
そこで、タコライス屋が、候補として挙がったのだ。
焼き鳥屋を始める前にタコライスの味の研究のために沖縄へ再び飛んだ。
2泊3日で沖縄にある有名なタコライス屋をすべてを訪れるというものであった。
沖縄に到着してまずレンタカーを借りた。
ホテルも取らなかった。
沖縄各地に回らなきゃいけなかったので、どこのホテルに泊まっていいか全く定まっていなかったのだ。
幸い沖縄は暖かい場所なので、結局のところ、車の中で寝泊まりした。
車の中の寝泊まりも、苦ではなかった。
それは、夢に向かって前進しているという高揚感があったのと、また、海沿いの駐車場で寝泊まりしていたため、起きたら目の前にブルーオーシャンが広がっているという環境がよかったのだ。
もしこれが日本の本土だったら、そこまで爽快な気分ではなかったと思う。
沖縄では車の中で寝泊まりすることがむしろ楽しかった。
何か冒険心に満ちていたのだ。
沖縄では3日間、タコライスを食べまくった。
そして、味や値段や作り方の研究をした。
さすがに2日目の途中で、気持ちが悪くなったのを覚えている。
幾ら好きと言っても毎日、毎回食べているとまこのようになってしまうのは予想がつく。
でも、気持ち悪くなりながらも、夢に向かって前進しているという感触がうれしかった。
地元に帰ってからは、経費がどれぐらいかかるかなどの研究を行った。
しかしここでどうしてもタコライスの経費単価が高いことに気づいた。
当時レタスは値段が高騰し、スーパーではひと玉で250円ほどで売られていた。
またチーズに関しても、チェダーチーズが必要だったのだが、チェダーチーズは普通のナチュラルチーズなどに比べて高価であった。
おおよそ沖縄ではタコライスの値段は500円ほどで売られていた。
私もやはりワンコインでタコライスを食べるようにしたかった。
しかしワンコインだと利益が100円ほどにしかならなかった。
こうなってしまうとタコライスだけで経営していくのはかなり難しかったのだ。
なので、沖縄のタコライス屋ではチキンバーなどのサイドメニューを置いていたのだと思った。
またお気に入りのキングタコスに関しては、他店舗の経営をすることによって、利益率の低さをカバーしていたことに気づいた。
結局、そのそういった煮え切らない部分があったため、まず焼き鳥屋のフランチャイズをやり始めたという理由もあった。
立ちどまって考えているだけでは前には進まないと思ったからだ。
持ち帰り専門の飲食店がどういうものかっていうのを知ってからでも、遅くはないと思ったのだ。
結局その判断は正しかった。
なぜなら予想以上にアウトドアの飲食店というのは厳しかったのだ。
まず体力が半端なく必要だということ。
毎回店を出してたたまなければいけなかったので、その際、かなり疲労を抱えてしまう。
いわばかなり面倒くさかったということだ。
そして、お店の営業も1人でやるわけなので、ネタの管理や調理、会計、オーダーなどがかなりてんてこ舞いになるのだ。
営業後しばらくは、かなりテンパった。
この辺は徐々に慣れてくるのではあるが、何よりも一番大変だったのが商品の管理であった。
冷蔵庫持たないために、商品の管理はかなりの難をきわめたのだ。
ネタは凍ったものもあったので冬場に関しては、ネタが解けなくて営業がもたついたり、また夏場においては、ネタがすぐに傷んでしまうのだ。
これにはかなり頭を悩まされた。
また休む時などはかなり大変であった。
四六時中ネタを見てないと、すぐにネタがだめになってしまうのだ。
アウトドアでの飲食店のデメリットをかなり感じた。
すべてが予想以上に面倒であったのだ。
これには心底疲れてしまった。
この現実を知ってからというもの、タコライス屋をやるということに関してかなりモチベーションが下がった。
しかもタコライスに関しては、利益率の問題もあったので、やがてタコライス屋の開業は諦めることになった。
タコライス屋を諦めることになった以上、このフランチャイズの焼き鳥屋を続けている意味がなかった。
そのため、しばらくして焼き鳥屋をやめることになった。
しかしながら、この焼き鳥屋の営業で商売の現実というものを知ることができたので非常に意味があった。
若いうちにかなりいい経験をさせてもらったと思った。
このときのまた学びとしては、やりたい事があったら一度片脚を入れてみるというのが有効的であることを学んだ。
どのような仕事でも表向きと現実とは違うものだ。
表向きは華やかに見える業界ほど、一度片脚を入れてみる必要があると思う。
このとき、私が失ったお金は0であった。
開業資金に関しては、焼き鳥で儲かったお金で支払いを完了していたのだ。
もしタコライス屋を初めてしまって失敗していたら、多額の借金を抱えていたことだろう。
この時ばかりは石橋を叩いて壊す性格が、良いふうに働いたと思う。