自由に海外旅行できる生活を手に入れるため、30代で脱サラ。旅バカそして一匹狼として社会を生き抜く、不常識な人生放浪記。

大学時代のアイスホッケー

大学生時代はアイスホッケーサークルに所属していた。

高校生の頃からアイスホッケーをやっていたこともあって、大学でもやることになった。

初めは大学に入って、サッカー部に入ろうとしていた。

サッカーはもともと小学生と中学生の時にやっていた。

高校生になってからはアイスホッケーを始めたんだが、当時大学生の兄が社会人のサッカークラブチームに入っていて、そこでサッカーもやっていた。

アイスホッケーとサッカーを両立させていた。

何とタフな高校生だったんだろうなと思う。

今では考えられない。

中学生まではあまりサッカーの醍醐味っていうものを理解していなかったが、高校生の時に社会人チームでサッカーをやって、サッカーの醍醐味に気づいた。

サッカーがとても楽しくてたまらなかった。

なぜ中学生の時までサッカーを楽しめてなかったのかというと、やはりやらされてた感が強かったからだろうと思う。

それと同世代の人間だけで、サッカーをやってるってのがつまらなかったからだろうと思う。

社会人チームでは一番私が年下だった。

社会人の中で1人高校生としてプレーしているというのが面白かった。

社会人のチームでは、自由にプレーさせてもらうことができ、サッカーの楽しさを心から味わった。

社会人チームっていうのは文字通り皆社会人なわけで、普段は働いている。

働いているにもかかわらず、空いた時間サッカーをするのだから、サッカーの事が好きでないとやってられない。

みんなサッカーに対する情熱があった。

そういう環境でサッカーをプレイできるのは幸せであった。



そのような感じでサッカーに愛着を持った私は、大学生になったらサッカー部に入ろうと思っていた。

しかし、ひょんな事でアイスホッケーサークルに入ることになってしまった。

大学に入学した後、部活やサークルの歓迎コンパっていう催しがあるのだが、そこでアイスホッケーサークルはローラーブレード入って活動していた。

それを見た私は、少し滑らせてくれないかと頼んだ。

ローラーブレードは高校生のときにアイスホッケーのスケーティングの練習として、ほぼ毎日履いていた。

そのため私はローラーブレードを歩くかのごとく滑ることができたのだ。

なので、ローラーブレードを借りると水を得た魚のようにバックスケーティングやジャンプなど披露した。

私は国立大学に通っていたので、高校生時代はみんな猛勉強やっていたっていう連中ばかりだった。

なのでこのようなストリートスポーツをきわめてる人間なんていうのはまれであった。

そのため、アイスホッケーサークルのみんなは目を丸くした。

そして私をアイスホッケーサークルに勧誘したというわけである。

私もおだてられたら弱い方だったので、勢いでアイスホッケーのサークルに入ってしまった。

1年のうちスケート場でアイスホッケーの練習ができるのは10月から4月までであった。

その他は路上でローラーブレード使っての練習となった。

いわゆるローラーホッケーというやつだ。

私の周りの新入部員たちは、皆初心者であったが、みるみる上達していった。

ローラーブレードではスケーティングの基本的なバランス感覚を養うことができるが、どうしても一つ養えない部分がある。

それは、ストップである。

実際スケーティングでは進行方向に対して、スケートの刃を垂直に向けることによって氷を削り、ストップすることになる。

これだけはローラーブレードでは練習ができなかったのだ。

なので、オフシーズンが終わって、実際にスケート場で練習となった時に、皆滑ることは滑れることは滑れるのだが、ストップすることができずにフェンスに突っ込んでいってた。

アイスホッケーのスケーティングにおいて、ストップの動作が一番習得しづらい。

バックスケーティングやターンやジャンプといった動作は割とすぐに身につくのだが、ストップだけはコツと経験がいる。

私自身も高校生の時にアイスホッケーをやり始めた頃、ストップの習得にはかなりの時間を費やした。

しかしながら、スピードを出すことできるが止まれないっていうのは、滑稽であるし、何しろ危険であった。

人に当たるかフェンスにあたるかまで、止まれないのだから。

想像して欲しい。

ブレーキのない車を。

ブレーキのない車なんて、危険でしようがない。

しかし、全く状況は同じことだ。

それとローラーブレードと氷上のスケートでは、すべての感覚が全く違う。

氷上のスケートは恐ろしいほど摩擦がないのだ。

摩擦がないということは、惰性でどこまでも滑っていくっていうこと。

これに戸惑う新入部員が多かった。

私も初めはそうだったんだから気持ちはわかった。

なので彼らには丁寧に指導とコーチをした。

どちらかといえば自分のスキルを伸ばすよりも、人を育てるという。時間が多かった。

それはそれでやりがいがあった。

人に教えて、その人が上達して喜ぶ姿を見ることが、楽しみだった。

この時に人間というのは、誰かに貢献することで満足を得られる生き物だと思った。

我々が住んでいるところからスケート場までは80キロ離れていた。

お金のない貧乏大学生たちの集まりだったので、高速道路は使わずすべて下道で通っていた。

なので夜でも片道1時間半はかかった。

大学生というのは時間がたっぷりあるので、スケート場に通う時間も別に苦ではなかった。

練習は大体スケートの営業時間が終わった後に始まるので、8時からか10時からという。時間帯であった。

10時からの練習だと家に帰り着くのは夜中の2時や3時になった。

しかし大学生は時間がたっぷりあったので、別に苦ではなかった。

私も軽トラを乗って練習に行っていたのだが、ただ練習後の運転では、居眠りと格闘することが多々あった。

また、練習試合や公式戦に出るときは、他の県まで行かなければならなかった。

その際は片道4時間だった事故時間だったりかかる。

さすがに現地に着くまでにかなり疲れてしまって、試合どころではなかった時もよくあった。

しかしそこは20歳の大学生。

試合が始まると、体力が復活して動き回っていた。

初めての公式戦は、大学生の地域リーグであった。

私は中国地方の大学に通っていたので、中四国リーグに参加した。

それは愛媛県で行われた。

夜中フェリーで瀬戸内海を渡って松山に向かった。

松山では皆でロッジに宿泊した。

松山にあるスケート場っていうのがかなり変わった形をしていた。

このスケート場も夏場はプールであった。

大抵はそのような感じが多いのだが、プールの上に板を敷き詰め、その上に氷が張ってフェンスをつけてスケート場にするのが一般的であったが、この松山のスケート場の場合は水を抜いたプールの中に直接氷を張っていたのだ。

なので、イメージとしては低い場所でスケートをしているというイメージ。

フェンスは普通アクリル版でできているのだが、この松山のスケート場の場合は、フェンスは壁であった。

アクリル版のようにショックを吸収してくれないので、かなり体が痛かった。

各県の大学生チームは一つの県に二つほどはあった。

基本的に地方の県の高校生チームというのはないところも多かったので、大学生になって始める人が沢山いるのだと思った。

私はもともとその競技人口が少ない中でやっていたので、このことはうれしかった。

サッカーも面白いがアイスホッケーもかなり面白いのだ。

しかしアイスホッケーの場合は実際にやらないと面白さってものが全然わからないスポーツである。

そういう意味でアイスホッケーの楽しさをしている人間が増えたことがうれしかったのだ。

そんな悠長なことを言っている場合ではなかったかもしれない。

我々のチーム弱小チームだったため、下から2番目という成績で終わった。

私はもともとフォワードだったのだが、バックスケーティングを上手にできる人間が少なかったため、ディフェンスとして試合に出場した。

ディフェンスというのはバックスケーティングができないと話にならない。ポジションなのである。

別の年には岡山と島根で大会が開催された。

アイスホッケーというのは遠征が基本だったので、試合ついでにいろいろなところに行けるので、それはそれで楽しかった。


プロフィール

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【国境なき自由人倶楽部・代表】
戸茂 潤(とも じゅん)

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