大学時代のアイスホッケー
大学生時代はアイスホッケーサークルに所属していた。
高校生の頃からアイスホッケーをやっていたこともあって、大学でもやることになった。
初めは大学に入って、サッカー部に入ろうとしていた。
サッカーはもともと小学生と中学生の時にやっていた。
高校生になってからはアイスホッケーを始めたんだが、当時大学生の兄が社会人のサッカークラブチームに入っていて、そこでサッカーもやっていた。
アイスホッケーとサッカーを両立させていた。
何とタフな高校生だったんだろうなと思う。
今では考えられない。
中学生まではあまりサッカーの醍醐味っていうものを理解していなかったが、高校生の時に社会人チームでサッカーをやって、サッカーの醍醐味に気づいた。
サッカーがとても楽しくてたまらなかった。
なぜ中学生の時までサッカーを楽しめてなかったのかというと、やはりやらされてた感が強かったからだろうと思う。
それと同世代の人間だけで、サッカーをやってるってのがつまらなかったからだろうと思う。
社会人チームでは一番私が年下だった。
社会人の中で1人高校生としてプレーしているというのが面白かった。
社会人のチームでは、自由にプレーさせてもらうことができ、サッカーの楽しさを心から味わった。
社会人チームっていうのは文字通り皆社会人なわけで、普段は働いている。
働いているにもかかわらず、空いた時間サッカーをするのだから、サッカーの事が好きでないとやってられない。
みんなサッカーに対する情熱があった。
そういう環境でサッカーをプレイできるのは幸せであった。
そのような感じでサッカーに愛着を持った私は、大学生になったらサッカー部に入ろうと思っていた。
しかし、ひょんな事でアイスホッケーサークルに入ることになってしまった。
大学に入学した後、部活やサークルの歓迎コンパっていう催しがあるのだが、そこでアイスホッケーサークルはローラーブレード入って活動していた。
それを見た私は、少し滑らせてくれないかと頼んだ。
ローラーブレードは高校生のときにアイスホッケーのスケーティングの練習として、ほぼ毎日履いていた。
そのため私はローラーブレードを歩くかのごとく滑ることができたのだ。
なので、ローラーブレードを借りると水を得た魚のようにバックスケーティングやジャンプなど披露した。
私は国立大学に通っていたので、高校生時代はみんな猛勉強やっていたっていう連中ばかりだった。
なのでこのようなストリートスポーツをきわめてる人間なんていうのはまれであった。
そのため、アイスホッケーサークルのみんなは目を丸くした。
そして私をアイスホッケーサークルに勧誘したというわけである。
私もおだてられたら弱い方だったので、勢いでアイスホッケーのサークルに入ってしまった。
1年のうちスケート場でアイスホッケーの練習ができるのは10月から4月までであった。
その他は路上でローラーブレード使っての練習となった。
いわゆるローラーホッケーというやつだ。
私の周りの新入部員たちは、皆初心者であったが、みるみる上達していった。
ローラーブレードではスケーティングの基本的なバランス感覚を養うことができるが、どうしても一つ養えない部分がある。
それは、ストップである。
実際スケーティングでは進行方向に対して、スケートの刃を垂直に向けることによって氷を削り、ストップすることになる。
これだけはローラーブレードでは練習ができなかったのだ。
なので、オフシーズンが終わって、実際にスケート場で練習となった時に、皆滑ることは滑れることは滑れるのだが、ストップすることができずにフェンスに突っ込んでいってた。
アイスホッケーのスケーティングにおいて、ストップの動作が一番習得しづらい。
バックスケーティングやターンやジャンプといった動作は割とすぐに身につくのだが、ストップだけはコツと経験がいる。
私自身も高校生の時にアイスホッケーをやり始めた頃、ストップの習得にはかなりの時間を費やした。
しかしながら、スピードを出すことできるが止まれないっていうのは、滑稽であるし、何しろ危険であった。
人に当たるかフェンスにあたるかまで、止まれないのだから。
想像して欲しい。
ブレーキのない車を。
ブレーキのない車なんて、危険でしようがない。
しかし、全く状況は同じことだ。
それとローラーブレードと氷上のスケートでは、すべての感覚が全く違う。
氷上のスケートは恐ろしいほど摩擦がないのだ。
摩擦がないということは、惰性でどこまでも滑っていくっていうこと。
これに戸惑う新入部員が多かった。
私も初めはそうだったんだから気持ちはわかった。
なので彼らには丁寧に指導とコーチをした。
どちらかといえば自分のスキルを伸ばすよりも、人を育てるという。時間が多かった。
それはそれでやりがいがあった。
人に教えて、その人が上達して喜ぶ姿を見ることが、楽しみだった。
この時に人間というのは、誰かに貢献することで満足を得られる生き物だと思った。
我々が住んでいるところからスケート場までは80キロ離れていた。
お金のない貧乏大学生たちの集まりだったので、高速道路は使わずすべて下道で通っていた。
なので夜でも片道1時間半はかかった。
大学生というのは時間がたっぷりあるので、スケート場に通う時間も別に苦ではなかった。
練習は大体スケートの営業時間が終わった後に始まるので、8時からか10時からという。時間帯であった。
10時からの練習だと家に帰り着くのは夜中の2時や3時になった。
しかし大学生は時間がたっぷりあったので、別に苦ではなかった。
私も軽トラを乗って練習に行っていたのだが、ただ練習後の運転では、居眠りと格闘することが多々あった。
また、練習試合や公式戦に出るときは、他の県まで行かなければならなかった。
その際は片道4時間だった事故時間だったりかかる。
さすがに現地に着くまでにかなり疲れてしまって、試合どころではなかった時もよくあった。
しかしそこは20歳の大学生。
試合が始まると、体力が復活して動き回っていた。
初めての公式戦は、大学生の地域リーグであった。
私は中国地方の大学に通っていたので、中四国リーグに参加した。
それは愛媛県で行われた。
夜中フェリーで瀬戸内海を渡って松山に向かった。
松山では皆でロッジに宿泊した。
松山にあるスケート場っていうのがかなり変わった形をしていた。
このスケート場も夏場はプールであった。
大抵はそのような感じが多いのだが、プールの上に板を敷き詰め、その上に氷が張ってフェンスをつけてスケート場にするのが一般的であったが、この松山のスケート場の場合は水を抜いたプールの中に直接氷を張っていたのだ。
なので、イメージとしては低い場所でスケートをしているというイメージ。
フェンスは普通アクリル版でできているのだが、この松山のスケート場の場合は、フェンスは壁であった。
アクリル版のようにショックを吸収してくれないので、かなり体が痛かった。
各県の大学生チームは一つの県に二つほどはあった。
基本的に地方の県の高校生チームというのはないところも多かったので、大学生になって始める人が沢山いるのだと思った。
私はもともとその競技人口が少ない中でやっていたので、このことはうれしかった。
サッカーも面白いがアイスホッケーもかなり面白いのだ。
しかしアイスホッケーの場合は実際にやらないと面白さってものが全然わからないスポーツである。
そういう意味でアイスホッケーの楽しさをしている人間が増えたことがうれしかったのだ。
そんな悠長なことを言っている場合ではなかったかもしれない。
我々のチーム弱小チームだったため、下から2番目という成績で終わった。
私はもともとフォワードだったのだが、バックスケーティングを上手にできる人間が少なかったため、ディフェンスとして試合に出場した。
ディフェンスというのはバックスケーティングができないと話にならない。ポジションなのである。
別の年には岡山と島根で大会が開催された。
アイスホッケーというのは遠征が基本だったので、試合ついでにいろいろなところに行けるので、それはそれで楽しかった。