丸腰の非正規労働者が独立し国際交流を楽しむ。一匹狼で人生を欲望的に生きる一風変わった豊かな生活。

インド旅行で物乞いへの喜捨(バクシーシ)について考えた

アジアを旅していると、物乞いに遭遇するケースは高い。
特にインドは、物乞いの聖地と言っても過言ではない。
実に様々なバクシーシを求め方が存在する。

kisha

只々バクシーシを求める者、幼子を抱えながら求める母親など。

インド特有なのが、腕や脚を持たない身体障害者の物乞いの多さ。
一説によると彼らは幼少時代、故意に身体に障害を負わされたらしい。
皆が皆ではないだろうが。

確かに健常者と比べて、身体障害者の方が同情心を抱かれやすく、
結果、バクシーシを得れる確率は高い。

 

大ヒットしたインドを舞台にした映画「スラムドッグ・ミリオネア」の中でも、
身寄りのない子供たちを集めて保護していると見せかけ、
終いには子供をお金のための食い物にしているシーンがある。

ある子供は売春宿に売り飛ばされ、ある子供は目に硫酸か何かを差され、
失明させたうえで、路上の物乞いにさせられる。

日本人の感覚では都市伝説のように感じるが、
インドでは現実として十分あり得る話だと思う。

 

私は旅の間、同情心からの喜捨はしないことにしている。

一つ目の理由としては、キリがないから。
それくらい同情心を招かせる物乞いの数が多い。

二つ目の理由としては、やはり何かしらの努力を見せて欲しいこと。
言い換えれば、頭(知恵)を使って欲しいこと。

ただ手を出し「お金ちょうだい」ではNG。
お金のやり取りには、等価交換が原則。

 

「貧しい人に喜捨すれば、来世は報われる」という思想だけでは納得できない。

単に喜捨することは簡単だが、それでは相手の脳を怠惰にする。
人間に備わった想像力および創造力を働かせる機会を奪いたくない。

この力を使うことが、人間としての楽しみだと思うから。

 

 

ブッダガヤのマハボーディー寺院にいると、
1人の少年がニコニコし、話し掛けてきた。

少年は10才であり、彼より若い少年たちを家に集めて、
勉強を教えているという。

勉強道具を買う費用がないため、喜捨してくれとのこと。
今まで喜捨してくれた人の名前が書いたノートを私に見せてくる。

 

私が話半分しか聞いていないため、証明するから「家に来い」と言う。
スッポンのように付きまとってきたため、根負けした。

ローカルの家を覗いてみたい気持ちもあった。

 

ブッダガヤからちょっと外れたローカル地区の貧しい住居にお邪魔した。
お婆さんが表で忙しそうに、選択していたため挨拶し中に入る。

家の中の地面は土であり、原始的な感じだ。
少年そっちのけで、家屋を興味深く観察している自分がいた。

 

少年の部屋で、子供たつを集めて授業しているらしい。
ノートやらテキストやら色々と見せられた。

ただ本当にレッスンをやっているという確証はなし。

しかし、最終的に私は少年に100ルピーを渡した。
彼の熱意と、また普通見ることができないローカル生活を
見せてくれたお礼への等価交換だ。

少年には本音を言わず、私の目を見つめさせ
「この100ルピーはテキスト代に使うんだぞ」と言って渡したが。

 

レッスンは作り話で、お金を懐に入れてたかもしれないが、
彼は知恵を使って、喜捨を受けていた。

もはや喜捨ではなく、”寄付”の域を作り上げていた。
10才にして、この創造力には感服。

温室で育てられている日本の少年たちの将来を、
不安視せざるを得なかった。

 

 

インドには、もう一つ特異な物乞いがいる。
綺麗なサリーを纏ったニューハーフだ。

インド人は目鼻立ちがハッキリしているため、
女装したとなると、とても綺麗なオカマに変貌する。

 

一番初めに彼ら(彼女ら?)に出会ったのは、
デリーからバナラシへ向かう列車の中。

インド人含むメンバーで談笑していたところ、
通路を歩いて来て、私たちのところで止まった。

話を遮るかのように、足を床で「バンッ」と鳴らし、
私たちを見下しながら、無言で手の平を差し出していた。

完成された美人さがゆえに、状況が呑み込めず固まってしまった。

一緒にいたインド人が首を横に振り断ると、
無言で不機嫌そうに去って行った。

そして、その一緒にいたインド人から「彼は男だ」と聞かされた。

 

その後も、食堂で何度か遭遇した。
もちろん高圧的な態度。(笑)

なんかインドらしいファニーな一面である。

 

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戸茂 潤(とも じゅん)

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